ずずの奇妙な冒険(13)
最近の僕はお話しにならないぐらいつかれきってしまっているんだの巻
ずずです。
最近の僕はお話にならないくらい疲れきってしまっています。
仕事というわけでもない。私生活というわけでもない。
むしろ休日や読書やや喫茶店での一服や気分転換が僕を疲れされる。
これは、花屋で目に留まった観葉植物を買い、それに水をやることが面倒でたまらない
という種類の疲れに似てる。
この疲れは僕の中での単なる流行りに過ぎないのだろう。
廃れない流行はない。だから今は楽観的を装っている。つまらない流行に違いないと。
朝起きる。出掛けには、自転車のカギが見当たらない。
いつも前日着たスーツの上着の左のポケットに入れっぱなしになっている。
もし上着のポケットに入っていなかったら、若年性の痴呆症になったかと
不安になるかもしれないが、本当に不安になるのは、自分の家に帰れなくなったり、
自分の年齢が言えなくなったりしてからでも遅くはないだろう。
電車は込んでいる。文庫本を読めるだけのスペースを確保する。
有楽町マリオンの前には人の流れができている。
その流れに乗り切れず、足をつまずいて、
目の前に突然現れた大きな柱の壁にもたれかかる。
あきらめて空を見上げると、そこには、大きな鉄の塊が鋭角に空を遮ってる。
その景色は何度も見たこともあるものだ。
あと2ヶ月ほど若ければ大いに感動したかもしれない。
山の手のどの駅で降りても拝むことができる退屈な光景とお粗末な轟音が
僕のこめかみをぐちゃぐちゃにしてくれるという衝撃的な感動だ。
衝撃的なものは望んでいない。前頭筆頭は小結に寄り切られ、小結は関脇に寄り切られ、
小結は関脇に寄り切られ、関脇は大関に寄り切られ、横綱が土を踏むようなことはない。
そんな番付通りの相撲ほど衝撃的なものはない。
確率論や傾向と対策を熱心に語るものがいて、それを真剣に聴き入っていると、
僕はまもなく微熱を帯びる。血圧が少しだけ上がる。低血圧の僕にはちょうどいい。
また、絶対的で断定的な物言いを聞くと、しゃっくりが止まらなくなるような気がする
そんなときは「地球は丸くない、青くない。」と2回唱える。
そうすると治るような気がするのだが、実際に試したことはない。
思うだけ。「想う」のではなく、「思う」だけ。「そんな風に思った」だけだ。
たいていのことは、思って終わる。思うことで、完結してしまう。
そんなことをいちいち表現していたら、それが世間の常だというなら、世の中は、
青年実業家とシンガーソングライターと小説家と喫茶店のマスターと脱サラ蕎麦屋で
埋もれてしまうんじゃないかという不安に遭遇するが、実際のところは、
それはまだ少数派の方で。それだけでも気が晴れる。
天気は別だった。頬が冷たく濡れて、それが雨だとわかった。
数秒ほどのグロッキー状態からようやく持ち直した僕は、先ほどとは打って変わって、
全速力で歩き出していた。
目をぎらつかせ、やや前傾姿勢で、ギリシャのファランクスの最前線の歩兵のように、
流れの中を切り込んで、ビルへと突き進んでいった。
左手には盾の代わりに黒いバックを持ち、右手には槍の代わりに黒い折りたたみ傘を持ち、
それを今にも開こうかというところだ。だがその必要はなかった。
僕はすでにビルの真ん前に立っていた。白いビルだ。遠くからは銀色に見えていた。
そして、ビルに入ってから・・・。
その後のことは、脳に記名するほどのことは何も起きなかった。
螺旋階段を上り、ときどき下り、また上る。
右手を上げて、左手を上げて、右手を下げて、左足を前に出す。
舌を出し、まばたきをし、舌をもどし、くしゃみをする
僕の仕事はそんな具合に過ぎていったと予測する。
それを一ヶ月続けると、一ヶ月間、雨風を凌ぎ、飯を食い、スコッチを3回飲み、
映画を本観ることができるだけの生活費を与えてくれるのだ。
その夜、トマトジュースが足りないからかもしれないと、
スーパーへ行ってトマトジュースをしこたま買い込んだ。
夜中の時までやっているスーパーだ。そんなに遅くまでやっているということは、
それだけの需要があるからだろう。
世の中は需要と供給のバランスで成り立っている。
需要がなければ、何もないのだ。
都会は需要で埋め尽くされている。だから何でもある。何でも供給されるのだ。。
家に帰り、一時間の間に3本のトマトジュースを飲み干した。
翌朝、起きて、さらに本のトマトジュースを飲み干した。。
断っておくけれど、僕はトマトジュースをそれほど飲みたいわけではないのだ、
結果的に、昨日から今日にかけて、トマトジュースが大好きな僕が、
僕の中で大流行してしまった。
今日は、トマトジュースを飲み過ぎたようだ。この辺にしておこう。
いつかまた会う日まで。
ごきげんよう。
年間、ご愛読ありがとうございました
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